政治家になるまで

天野たみこ
序章 モブ(その他大勢)だった私が、なぜ政治にいるのか

三つの食子どもの頃の私は、勉強も運動もパッとしない「モブ(その他大勢)」でした。絵を描くのは好きでしたが、マンガを描こうとして難しすぎて、すぐに諦めました。
そんな私が、なぜ政治の世界にいるのか。答えはたぶん、「現場で見た矛盾」を放っておけない性格だからです。農家になりたいのに農地が手に入らない。制度はあるのに情報がなくて選べない。子どもの意思を尊重したいのに、安全や運用の設計が足りない。私はずっと、声の大きい人の議論より、声にならない生活の困りごとを感じてきました。だから今も、結論を急がず、現場から「入口と運用」を組み直していきたいと思っています。私の物語は、そこから始まります。
その「組み直したい」という感覚の芯には、私が大事にしてきた三つの「しょく」があります。
食――何を食べて生きるか。
職――どう働いて生活をつくるか。
触――現場に触れて体で理解すること。

政治は遠い世界の話に見えるかもしれませんが、この三つは誰の毎日にも直結する「生きる土台」です。
私はこの土台が揺らぐ瞬間を、何度も見てきました。だからこそ、揺らいだ人を責めるのではなく、揺らいだ原因を仕組みの側から直したいと思うようになりました。

第1章 横内町で育つ ー「モブ」から始まった感覚ー

第1章 横内町で育つ ー「モブ」から始まった感覚ー 1971年、私は静岡市葵区横内町で生まれました。
両親と兄が二人いる家庭で、子どもの頃の私は、勉強も運動もパッとしない、いわゆる「モブキャラ」。目立つタイプではないし、何かで圧倒的に勝てる感じもありませんでしたが、ひとつ好きなことがありました。
絵を描くことです。ノートの端や裏に、頭の中の景色や人物を描いている時間は、私にとって小さな逃げ場所でした。マンガ家に憧れ、目指したこともあります。でも想像以上に難しかった。ストーリー作り、コマ割り、構図、セリフ。現実的に、画材もお小遣いで買うには高かった。夢と現実は別世界で、私はすぐに諦めてしまいました。
今思えば、その「できなさ」は、恥ではなく、後に私の見方をつくる経験になりました。私は子どもの頃の小さな挫折から、言葉にしきれないまま、その感覚を抱えていたのだと思います。

第2章 海洋スクール ー役割と対話が基盤を作ったー

第2章 海洋スクール ー役割と対話が基盤を作ったー10歳から20歳にかけて参加していた「海洋スクール」は、私の基盤をつくった場所でした。長期休みに西伊豆で行われる合宿で、小学生の頃は年上に面倒を見てもらいながら過ごしました。
ところが中学・高校になると、班長やリーダーとして責任ある立場になります。メンバーのことで叱られることもありました。自分ひとりが頑張ればいいわけではなく、全体が回らないと意味がない。そんな当たり前のことを、私は体で覚えました。
そんな中、大きな救いと楽しみになったのが、全体消灯後のミーティングでした。先生たちと遅くまで話せる時間が励みになりました。今日の出来事を振り返ったり、班の雰囲気のズレを言葉にしたり、理不尽さや納得いかないことをぶつけたりしました。
大人が「聞く側」になってくれる夜があることが、10代の私には本当に救いでした。後になって気づきましたが、あれは教育のいちばん大事な部分だったと思います。
役割を引き受ける経験と、対話の時間。責任と寄り添い。その両方があると、人は少しずつ変われます。
この経験は、「人は役割と対話で育つ」という確信になって、今の私の政治姿勢にもつながっています。

第3章 冬の教室 ー小さな行動が空気を変えるー

第3章 冬の教室 ー小さな行動が空気を変えるーある年の12月、友達との小さなすれ違いがきっかけで、私はクラスの空気から外れていきました。教室の中で言葉が返ってこない。視線が合わない。理由を確かめる勇気もなく、黙っているほど深く沈んでいく感覚がありました。教室の扉の前で足が止まり、机に向かうだけで心臓がうるさく鳴りました。
限界がきて、母に言いました。
「学校に行きたくない」
すると母は、叱責でも同情でもなく、驚くほど具体的なことを言いました。
「明日から、一番に教室に入りなさい。みんなの机をきれいに並べ直して。後から登校してきた子に『おはよう』と声をかける。それだけでいい。ほかは何もしなくていい。」
え?学校へ行って、みんなの顔を見るのがしんどいのに?
でもなぜか私は、その“それだけ”を愚直に続けました。朝いちばんに教室へ行き、机を整え、来た子に挨拶する。すると、最初の数人は挨拶を返してくれることに気付きました。人が増えて教室が賑やかになってくると、返事は返らなくなる。毎日同じことを繰り返しました。劇的な逆転はありません。でも返ってくる返事はゼロじゃない。その気付きは、暗闇の中に小さな灯りを灯しました。
状況は、3学期の終わりまで続きました。ようやくクラス替え。新しい教室、新しい人。やっと終わる。そう思って、肩の力が抜けていた修了式のあと、数人の友達に呼び止められました。不安を抱えたまま行くと、彼女たちは言いました。
「たみこ、ごめん。実は…」
きっかけは小さなすれ違いだったこと。でも“ボスみたいな子”が怖くて、流れに逆らえなかったこと。本意じゃなかったこと。
その言葉を聞いたとき、私は怒りより先に、妙な納得が来ました。人は、正しさだけでは動けない。空気のほうが強い時がある。この出来事は、私の中にひとつの確信を残しました。
この経験で私が学んだのは、子どもを動かすのは「正しさ」より「明日できる一手」だということ。根性論でも同情でもなく、次の一歩が踏める設計が必要だったのです。居場所は、誰かの善意だけでは守りきれない。場を整え、声をかけ、続けられる形にする。空気は、毎日の小さな手当てで少しずつ変わっていく。
これが私の原点となり、あの冬から小さな行動の積み重ねを大切にしています。

第4章 社会人と留学 ー「自分の人生は自分で決める」ー

第4章 社会人と留学 ー「自分の人生は自分で決める」ー短大卒業後、私は社会人になりました。最初は地元の安定企業に就職しましたが、その後憧れだった営業職へ転職しました。営業は、会社からは数字や成果を求められますが、顧客の生活や事情、困りごとに触れながら、解決に繋げることが成果や報酬につながる。ここで培った「現場感」は、後の人生を支える土台になっていきます。
同時に、私にはもう一つ、はっきりした課題がありました。
当時、市長になった父親の名前が自分には重すぎました。そしてそれが仕事に影響するのが、どうにも嫌だったのです。周囲の視線や先入観が、私自身の評価と混ざってしまうことが苦しかった。「自分は自分」でありたくて、地元を離れたり、一人暮らしを始め、親から距離を取りました。自分の生活を自分で回し、結果も失敗もすべて自分の名前で引き受ける暮らしがしたかった。
またその頃、ずっと諦めていた夢が輪郭を持ってよみがえりました。それが「海外留学」でした。高校生の頃から夢見ていましたが、当時は親の許可が下りず、諦めていました。安全面の心配もあったのだと思います。その火は消えず、大人になって、自分で稼ぎ、自分で決められる立場になったとき、私はそれを現実に変える決断をしました。いざオーストラリアへ!夢の実現です。
「いつか」ではなく「今」行かなければ。自分の人生の舵を、他人に預けたままになる気がしました。
現地では語学学校に通いながら、一人旅もしました。宿は安いバックパッカーズを転々とし、ときには知り合った人の家に泊めてもらいながら過ごしました。今思えば、よくそんなことができたと思います。でも、それが面白かった。
予定通りにいかないことが当たり前で、頼れるのは自分の判断と、偶然出会った人との信頼だけでした。自分の世界が開けていく感覚がありました。この経験で得たのは語学だけではありません。肩書きも実家も関係ない場所で、「自分はどう生きたいのか」を自分で確かめ直しました。知らない土地で暮らし、助けてもらい、また助け返す。生活は制度や理屈だけで回っているのではなく、人と人の距離と段取りで支えられている。私はそれを、感覚として理解しました。
オーストラリアから帰国しても、人生がすぐに変わったわけではありません。いつもの仕事、いつもの暮らしに戻り、社会人として日々を積み重ねました。でも心の奥には、留学で手に入れた感覚が残っていました。「自分の人生は自分で決める」という、ごく当たり前で、私には決定的だった感覚です。その感覚は、すぐに結論にはなりませんでした。
時間をかけて熟しながら、数年後、私は「好き」だけを理由に、沖縄へ移住することになります。

第5章 沖縄移住と子育て ー守るものができて世界が一変ー

第5章 沖縄移住と子育て ー守るものができて世界が一変ー2005年、私は沖縄へ移住しました。それをきっかけに結婚し、出産し、子育てが始まりました。
正直に言えば、それまでの私は子どもが得意なタイプではありませんでした。どう接してよいか分からず、距離の取り方に迷うこともありました。でも子どもを授かった瞬間から、私の中で価値観が静かに切り替わりました。「守るもの」ができたのです。
守るものができると、世界の見え方が変わります。日々の段取りの一つひとつが、子どもの命と未来に直結していると感じるようになりました。私はここで初めて、「生きる」という行為を、責任を伴う手触りとして捉え直しました。
土地が変わると、当たり前が変わります。便利さよりも人と人の距離、机上の理屈よりも暮らしの段取り。私は、暮らしを「理屈ではなく手触り」で組み立てる感覚を身につけていきました。そして、子どもに何を伝えたいのかを考えるようになり、冒頭の言葉に繋がります。
食――何を食べて生きるか。
職――どう働いて生活をつくるか。
触――現場に触れて、体で理解すること。

勉強や正解を押しつけたいのではありません。生きる土台を、自分の手でつくれる人になってほしい。迷ったときに戻れる軸があれば、環境が変わっても折れにくい。子育てを通して、私はそう確信するようになりました。
では、その三つをいちばん近い距離で体験できる仕事は何か。私の答えは農業でした。食は命の入口で、職は暮らしの段取りそのもので、触は土と天候と人の手触りに直結しています。
農業は三つの「しょく」が一本につながる仕事であり、生き方だと感じました。そして長男が一歳のとき、私は農業の入口に立とうとしました。ここから次の章が始まります。

第6章 農業の入口 ー矛盾で詰む制度ー

第6章 農業の入口 ー矛盾で詰む制度ー長男が一歳のとき、私は農業に挑戦しようと動き出しました。
食を自分の手でつくり、働いて暮らしを立て、現場の手触りから学ぶ。その土台を、まず自分が生き方として示したいと思いました。ところが最初にぶつかった壁は、畑ではなく制度でした。どこに相談へ行けばよいか分からず、市の農業委員会に足を運びました。
そこで言われたのは、「農家とは、農地を持っている人のことです」という説明でした。では農地をどうやって取得するのかと尋ねると、「農地は農家しか手に入れられません」と返ってきました。
農地がないと農家になれない。でも農家でないと農地が手に入らない。入口で詰む矛盾でした。熱意や努力の話ではありません。入口の設計が、挑戦の前に人を止めてしまいます。
私はそこで、入口の段差を越えられない人がいる現実を突きつけられました。それでも私は引き返しませんでした。「できない理由」を集めるより、「動くための一手」を探す。そしてこの体験が、私の確信の原点になりました。挑戦を個人の根性に丸投げする社会は、必ず疲弊します。
入口の矛盾や情報不足があるだけで、人の未来は簡単に止まってしまう。だからこそ、挑戦が成立する「入口と案内」が必要なのだと思うようになりました。

第7章 畑と販路 ー暮らしを成立させる現実ー

第7章 畑と販路 ー暮らしを成立させる現実ー入口の矛盾にぶつかっても、私は止まりませんでした。
制度の壁を前にして痛感したのは、挑戦は意志だけでは始まらないということです。必要なのは、情報と伴走、そして現場へつながる具体的な道筋でした。
転機は、メンターとなる農家と出会ったことです。その農家で研修生として手伝いを始め、仕事の段取りを覚えました。少しずつ地域に知り合いが増え、やがて馴染みのご近所さんから、「あそこに使ってない畑があるから、耕して使ったら?」と声をかけられ、ようやくスタートラインに立てました。
しかし開墾の現実は重かった。
そこはいわゆる荒廃農地で、畑として成立させるには想像以上にお金がかかりました。耕すために何百万円もかかり、貯金はあっという間に底をつきました。さらに生活が成り立つまで時間もかかりました。農業は「時間差」の仕事です。今日頑張っても、収入になるのは先。
努力が目に見える形で返ってこない期間が長いほど、人は不安になります。ここがいちばんきつかったです。だから私は、作物を育てるのと同じくらい「売り先をつくること」に力を入れました。作れても、売れなければ暮らしになりません。職として成立させるには、販路という土台が必要でした。私は冬場のバジルとイタリアンパセリを中心に、沖縄県内だけでなく、全国のレストランや食品工場へ直接取引を開拓していきました。一方で、地元の島野菜やナス・ピーマンなどはJAや直売所にも出荷しました。現実的に収入の柱を組み立てる必要があったからです。作るもの、売る先、回す段取りを分散させ、暮らしが倒れない形にしていきました。
ここで私が得たのは、実行力と強さです。同時に、根性論とは逆の結論にもたどり着きました。入口の矛盾や情報不足があるだけで、挑戦は簡単に潰れてしまう。だからこそ、挑戦が成立する条件が揃う仕組みが必要だと、畑の上で確信しました。

第8章 帰郷と支援 ー救いと段差の実感ー

第8章 帰郷と支援 ー救いと段差の実感ーその後、私は離婚して帰郷しました。
息子二人を一人で育てることになり、生活を立て直す必要がありました。親に頼れたのはアパートの初期費用だけです。養育費はなく、独身時代からの貯金も農業の開墾や初期投資で使い果たしていました。とにかく家計を回し、子どもたちの暮らしを守る。その一点に、私は追い込まれていました。
生活を支える柱は二つ。働いて収入をつくることと、福祉による支援です。まず私は努力が数字として返ってくる世界で足場を作ろうと、生命保険会社で営業職として働き始めました。同時に、児童扶養手当などの支援を申請しました。これがなければ、立ち上がり直すための時間を確保できませんでした。支援は私にとって「甘え」ではなく、生活が崩れ落ちないための下支えでした。独身時代に営業職に従事していたので、営業職そのものへの抵抗はありませんでした。何とかなると思っていました。
でも現実は厳しかった。最初の半年間、契約はまぐれの二件だけ。電話をかけ、訪ね、断られ、また次へ。帰宅すれば家事と育児。子どもに向き合う時間も十分に取れず、貯金もできない家計を見返すたび泣きたくなる。
「もう無理かもしれない」
そう思う日が増え、限界が近づきました。
ある晩、私は「この1件が断られたら、もう諦めよう。辞めよう」と思いました。が、断られてしまった。もう1件、と賭けたけど、そちらも断られてしまった。「ああ、やっぱり向いてなかったか」と諦めました。しかしその1週間後、突然流れが変わりました。それまで様々なお客様に提案してきたプランの契約が、立て続けに決まったのです。その数10件。驚きました。後から振り返れば、急に何かが変わったのではなく、うまくいかなかった半年で、聞き方、伝え方、段取りを少しずつ変えてきていたこと、その積み重ねがご契約につながったのだと思います。
収入が上がり始めると、家の空気が少し変わりました。明日の食材を迷わず買える。子どもの必要なものを「今月は無理」と言わずに済む。休日に子どもたちを連れて遊びに行ける。私はようやく、生活の底から顔を出せた気がしました。
しかし次にやってきたのは、別の揺れでした。
低所得のひとり親に支給される児童扶養手当が少しずつ減っていったのです。制度がなければ、ここまで踏ん張れなかった。心から感謝しています。支援は立ち上がり直すための地面であり、子どもたちの生活を守る防波堤でした。ただ、収入が増えるほど支援は減ります。支援が減ると家計はまた揺れます。しかも学費や将来を考えると、私はもっと稼がなければならない。
「前に進んだのに、足元がまた不安定になる」
そんな感覚がありました。支援を受け続けたいわけではありません。抜けたい。自立したい。でも、その途中の段差、いわゆる「福祉の崖」が怖い。努力して上に上がるほど、別の不安が生まれる。私はそこで、福祉への感謝と同時に、「抜けづらい構造」があることも体感しました。
だから今、私は思います。支援は、次の一歩を支える橋であるべきだ、と。頑張る人が損をした気持ちにならず、子どもの未来に投資できるように。支援は、「依存」を生むカタチではなく「自立への移行」を支える設計であるべきです。あの時の私が感じた揺れは、同じ立場の誰かも感じている。私はそう確信しています。

第9章 山村留学との出会い ー制度が「届かない」壁ー

第9章 山村留学との出会い ー制度が「届かない」壁ー「ひとなみの暮らし」を手に入れた私に、次の目標が生まれます。
自然体験教育への未練を抱えたままの私は、2018年、私はたまたまテレビで山村留学という制度を知りました。親元を山村や離島の大自然の中で暮らし、自立へつながっていく。直感的に「これだ」と思いました。机の上の学びだけでは届かない部分を、生活そのもので補える仕組みだと感じたのです。そこで調べ始めて、次にぶつかったのは「情報がない」という壁でした。
制度そのものは静岡県以外に点在していて、長野や北海道、九州など全国各地に実践の現場があります。それなのに、まとまった比較情報がない。選び方の指針もない。制度が存在しても、当事者がたどり着けなければ、実質的には「ない」のと同じです。
私はそこから、山村留学について徹底的に調べ始めました。断片的な情報を拾い、問い合わせ、つながり、現地へ行く。そうして少しずつ、制度の全体像と運用の実態が見えてきました。さらに私は、複数の山村留学の現場を見学するようになりました。見学を重ねるほど、確信が強くなりました。山村留学の価値は、留学生にとっての体験や成長だけではありません。受け入れる地域にも、確かなメリットがあるという事実です。子どもの声が地域に戻り、暮らしの営みが外に開かれ、関係人口が増える。地域の資源が「教育」という形で再編集され、次の担い手や応援者につながっていく。山村留学は教育であり、同時に地域づくりの仕組みでもありました。そしてその価値は、知識として理解しただけでは終わりませんでした。2020年から、私の息子達が約2年半、九州の離島に留学したのです。親元を離れて暮らし、学び、地域の中で育つ日々を目の当たりにして、私は制度の良さを生活の実感として受け取りました。
自然の中で暮らすことは、それだけで子どもの体と心のリズムを整えます。また息子達は片道二キロの通学を毎日続ける中で、体力や体幹が鍛えられていきました。机の上の成長ではなく、日々の移動そのものが身体をつくり、持久力をつくり、生活の土台をつくっていく。その変化は分かりやすかったです。
一方で、良いことばかりではありません。子どもたちにとって、他人の中で暮らすのは簡単ではないのです。お手伝いの分担、食事の段取り、お風呂の順番。小さな共同生活には細かなルールと調整があります。思い通りにならない場面も多い。気を遣い、我慢し、ときにぶつかりながら、それでも翌日には仲直りして、同じ屋根の下で生活が続く。その大変さの中で、息子達は「自分だけで完結しない」暮らし方を身につけていきました。同時に、山村留学は留学生だけが育つのではなく、受け入れる側の地域にも変化が生まれます。子どもが来ることで地域に会話が戻り、行事が息を吹き返し、「自分たちの資源」を見直す視点が生まれていく。学校にとっても、生徒の人数を確保することで、教員や予算の維持ができ、環境整備ができるなど、課題対策の一手にもなり得ます。
だからこそ、こうした選択肢が静岡にないのは、もったいない。静岡県は山も海も豊かで、都市部もあります。受け皿になりうる場所も人もいるはずです。問題は、制度の価値が県内で共有されず、点が線になっていないこと、そして県全体の政策として組み上げられていないことでした。
私は、静岡県に必要なのは「誰かの善意」ではなく、広げるための「導線と役割分担」だと考えるようになりました。ここから私は、外から眺める側ではなく、動かす側として動き始めます。

第10章 届かない声 ー立候補の決断ー

第10章 届かない声 ー立候補の決断ー静岡県で山村留学を周知し推進するために、私は「しずおか里山留学支援協会」を立ち上げました。県内各地を回り、自治体や地域の関係者に会い、説明し、可能性を探りました。現場の声を拾い、負担感や不安の正体を言語化し、どうすれば小さく始められるかを考え続けました。県全体としての設計があれば、点は線になり、選択肢は増やせる。私はそのために動いていました。
しかし現実は厳しかった。話を聞いてもらえないのです。
前例がない。担当が違う。予算がない。忙しい。必要性が分からない。こちらが県全体への政策を考えているほど、相手の視界には入りません。私は何度も、外からお願いを続けることの限界を思い知りました。
県内を回る中で、忘れられない場面があります。ある市の教育委員会で、私は山村留学の仕組みと、留学生だけでなく地域にも波及するメリットを丁寧に説明しました。反応は悪くありませんでした。むしろ担当者はこう言いました。
「良い制度だと思うけど、・・・私の時にはやりません。」
そこにあったのは、制度の是非ではありません。必要性の議論でもありません。責任の所在がぼやけたまま、時間だけが過ぎていく構造でした。「良い」と分かっていても動かない。個人の善意や熱意に頼るだけでは、前に進まない。私はここで、外部提案だけでは、意思決定の速度は上がらないのだと確信しました。そして同時に、腹の底で決めました。外からお願いを続けるだけでは変わらない。
届かない声を、届く場所まで運ぶ役が必要です。制度を「ある」にするのではなく、「使える」にするには、県全体の設計が要る。ならば、自分が“やる側”に回るしかありません。私は県議会議員への立候補を決心し、情報を集め、段取りを考え、周囲に少しずつ相談を始めました。
ところが、決意だけでは前に進めません。立候補には時間もお金もかかります。生活の基盤も守らなければならない。ここから先は、親としての現実と正面から向き合うことになりました。
立候補は、気持ちだけでは決められません。親として、まず考えるべきは子どもたちの暮らしと将来です。選挙に立候補するには資金が要ります。私は自分の老後資金に加えて、子どもたちのために貯めていた学資にも手を付けることになると分かっていました。
だから、子どもたちに正直に話しました。「選挙に落ちたら、大学に行かせてあげられないかもしれない」と。すると子どもたちは、少し黙ってから言いました。「お母さんの人生だから」と。私はその言葉に背中を押されると同時に、親として、この挑戦を絶対に無駄にできない責任を受け取りました。
仕事は生活を守る柱であり、簡単に手放せるものではありません。一方で、山村留学を静岡に実装するには、現場の熱意だけでは足りない。県の仕組みとして動かさなければ、広がる速度が遅すぎます。私はそのギャップに、何度も立ちすくみました。
それでも結論は固まっていきました。外からお願いを続けるだけでは変わらない。届かない声を、届く場所まで運ぶ役が必要です。制度を「ある」にするのではなく、「使える」にするには、県全体の設計が要る。ならば、自分が“やる側”に回るしかない。
そうして私は立候補を決めました。が、もともと政治から離れていたので、私には人脈もなく相談相手もいなかったので、まず母に相談しました。が、渋い顔。何度も話し、ようやく「あんたがそんなに言うなら、お父さんに言ってみれば?」と言われ、父に話すと「くだらない。お前なんか無理に決まってる」と一蹴され。3ヶ月ほどかけて、なんとか説得?し、ようやく事務所の設置や友人に声をかけ協力を求める体制が整いました。それがもう12月。
5人区に8人立候補という激戦でしたが、2023年4月初当選。県議としての活動が始まりました。

第11章 コンテンツ ー人材・産業・文化を束ねるー

第11章 コンテンツ ー人材・産業・文化を束ねるー県議になって最初に感じたのは、課題はバラバラに存在しているのではなく、生活の中でつながっているという事実でした。
教育、福祉、産業、観光、地域づくり。どれか一つを動かすには、別の分野の仕組みも同時に見直さなければならない場面が多くあります。
私は現場で見てきた感覚を、県全体の設計に落とし込む仕事に向き合い始めました。そうして政策を考えるほどに、もう一つ、強く取り組みたいテーマが、輪郭を持って立ち上がってきました。マンガ・アニメ・ゲームを中心とするコンテンツの推進です。一見すると、山村留学をはじめとする教育施策とコンテンツは別の話に見えるかもしれません。でも私の中では、政治を学び、県全体の政策を考えるほどに、この二つは同じ線でつながっていきました。共通しているのは、「点在する資源を仕組みとして束ね、選択肢として県民に届ける」という発想です。
山村留学では「良い制度があっても情報が届かなければ、ないのと同じ」だと痛感しました。必要なのは、現場の善意に頼らず、県として設計し、広げ、支え続ける仕組みです。同じことがコンテンツにも当てはまります。才能や作品があっても、育つ道筋と発表の場がなければ芽は消えてしまう。作品が生まれても、地域に残る仕組みがなければ価値は一過性で終わる。私は政治を学ぶ中で、教育も産業も文化も、結局は「設計」で結果が変わることを、よりはっきり理解するようになりました。そして私は、「いま何を選ぶか」を決めるとき、「30年後の静岡」に立って考えるようになりました。今の子どもたちが大人になったとき、この県に「挑戦できる場所」と「誇れる物語」と「食べていける仕事」がどれだけ残っているか。教育だけ整えても、働く選択肢がなければ若者は出ていきます。逆に仕事だけあっても、地域に誇りや文化の厚みがなければ、人は根を下ろしにくい。未来を支えるのは、産業だけでも教育だけでもありません。人が育ち、地域が続くための土台です。私がコンテンツを本気で位置づけたい理由は、その射程の広さにあります。コンテンツは産業であると同時に、人材育成であり、観光施策であり、文化であり、地域のアイデンティティでもあります。
第一に、人材育成です。描く人、つくる人、届ける人、支える人。創作は一部の天才だけで回っているのではありません。編集、企画、デザイン、音楽、映像、ゲーム開発、翻訳、法務、マーケティング、イベント運営。多様な職能が連なって初めて産業になります。だからこそ、学校教育や社会教育、地域の学びの場と接続し、「好き」や「得意」が仕事につながる導線を整えることが重要です。
第二に、観光施策です。作品の舞台を訪ねる聖地巡礼は、移動そのものが体験になり、地域の風景や食や人に触れる入口になります。単発の集客ではなく、地域の誇りや関係人口につながり得ます。山村留学が地域を外に開く仕組みであったように、コンテンツもまた地域を外に開く力を持っています。
第三に、静岡市が誇る地場産業のプラモデルとの親和性、すなわち「つくる文化」です。コンテンツが「物語を生む力」だとすれば、プラモデルは「形にする力」です。企画、設計、金型、成形、塗装、組み立て、品質管理、流通。そこには、ものづくりの高度な技術と分業の知恵が積み上がっています。
この土壌は、アニメやゲームなどのIPと非常に相性が良い。キャラクターやメカ、世界観を立体物として実装し、体験として手元に届けられるからです。さらに工場見学や体験型ワークショップ、展示、イベントといった観光・教育施策にもつながります。子どもたちにとっては、「好き」が技術や仕事に接続する入口になります。地域にとっては、コンテンツを消費で終わらせず、地場産業の付加価値と雇用につなげる導線になります。つまり静岡は、物語を育てるだけでなく、形にして世界へ届けられる県だと私は考えています。
第四に、静岡は「ゆかりのある人材」という資源を持っています。県出身のマンガ家やクリエーターが積み上げてきたものは、単なる経歴ではなく、次世代に手渡せる道しるべです。子どもたちにとっては、「ここからでも世界に届く」という具体的な証拠になります。
第五に、文化としての位置づけです。コンテンツは最新の流行だけではありません。静岡には十返舎一九のように、物語を編み、旅と笑いと世相を描き、庶民の感覚を言葉にしてきた系譜があります。表現は、時代が変わっても人を支え、地域の記憶をつないでいきます。だから私は、コンテンツを「軽いもの」として扱うのではなく、文化政策としても正面から位置づけたいと思っています。私がコンテンツを「趣味」ではなく「国益と地域戦略」として捉えるようになった原点は、2009年にあります。麻生太郎政権下で、マンガ・アニメ・ゲームなどのメディア芸術を保存・発信し、著作権を守る国の拠点構想が持ち上がりました。マンガが好きだった私は期待しましたが、政権交代と事業仕分けで「国営マンガ喫茶」などと揶揄され、結果として立ち消えになりました。私は当時から、あの扱われ方は日本の国益を損ねたと感じていました。マンガ・アニメ・ゲームなどで生まれたIP(知的財産)という価値は、人を動かし、お金を動かし、技術や観光や教育にも波及します。だからこそ私は、県議として、静岡の資源と結びつけ、産業として育て、文化として守り、観光として磨き、人材育成として次世代へ渡す。
コンテンツを、静岡の未来の土台に組み込みたいと考えています。

終章 「今日と同じ平和な明日」を守るために

終章 「今日と同じ平和な明日」を守るためにコンテンツも教育も産業も、突き詰めれば人が育ち、地域が続くための土台づくりです。
土台はすぐには結果が見えませんが、時間がたつほど差になります。だから私は、30年後の社会を基準に、いま何を選ぶべきかを考えています。30年後も私が守りたいのは、「今日と同じ平和な明日」です。そして、明日が今日より少しだけ良い日になったらいいなと思える、その気持ちを守り続けたい。政治とは本来、そのための営みだと思っています。
将来の社会を担う人たちが希望を持てるように、制度と基盤を整えること。それが今の私たちに課せられた責務であり、未来への贈り物です。目の前の困りごとをその場しのぎで埋めるのではなく、10年後、30年後も機能し続ける土台をつくる。私は現場を歩き、制度の壁にぶつかり、子どもの暮らしの変化を見つめる中で、その重要性を何度も思い知らされました。農業の入口で感じた矛盾、離島留学で見た生活そのものの学び、山村留学で突き当たった情報不足と「良いと思うがやらない」という停滞。どれも、個人の努力や善意だけでは乗り越えられない段差が、仕組みの側に残っているという現実でした。
制度は「ある」だけでは足りません。必要な人に届き、使われ、守られるように整えられて初めて意味を持ちます。
だから私は、これからも三つの「しょく」を手放しません。
食――暮らしの入口を守ること。
職――自分の足で生活をつくれる社会にすること。
触――机の上ではなく、現場の声と手触りから政策を組み立てること。

では、そのために今、何をすべきなのでしょうか。
具体的なミッションを掲げ、優先順位をつけ、実行に移すには材料が必要です。あらゆる分野の現場に触れ、生活者の声に耳を傾け、何が人を支え、何が人を止めているのかを見極めることが政治家の仕事だと思っています。声の大きさではなく、困りごとの切実さを基準に、土台の形を整え直す。その積み重ねが、「今日と同じ平和な明日」を守り、明日を今日より少し良い日にしていく力になります。
政治が遠いものに見えるのは、触れる機会が少ないからかもしれません。でも本当は、政治は生活そのものです。進学、仕事、家族、住まい、地域、災害への備え。あなたの毎日に直結しています。だから私は、これからも「つなぐ」仕事を続けます。あなたの声が届かないまま消えないように。あなたの挑戦が入口の矛盾で止まらないように。現場から土台を整え、仕組みを動かすために。