政治家「天野たみこ」になるまで
序章 モブキャラだった私が、なぜ政治にいるのか
子どもの頃の私は、勉強も運動もパッとしない“モブキャラ”でした。絵を描くのは好き。でもマンガを描こうとして、難しすぎてすぐ諦めた。そんな私が、なぜ政治の世界にいるのか。答えはたぶん、「現場で見た矛盾」を放っておけない性格だったからです。農家になりたいのに農地が手に入らない。制度はあるのに情報がなくて選べない。子どもの意思を尊重したいのに安全の設計が足りない。私はずっと、声の大きい人の議論より、声にならない生活の困りごとを感じてきました。だから今も、結論を急がず、現場から仕組みを組み直す。私の物語は、そこから始まります。
その「仕組みを組み直したい」という感覚の芯には、私が大事にしてきた三つの「しょく」があります。
食――何を食べて生きるか。
職――どう働いて生活をつくるか。
触――現場に触れて、体で理解すること。
政治は遠い世界の話に見えるかもしれませんが、この三つは、誰の毎日にも直結する“生きる土台”です。私はこの土台が揺らいだ瞬間を、何度も見てきました。だからこそ、揺らいだ人を責めるのではなく、揺らいだ原因を仕組みの側から直したいと思うようになったのです。
第1章 横内町で育つ
971年、私は静岡市の葵区横内町で生まれました。父は元静岡市長、母がいて、兄が二人いる家庭です。けれど子どもの頃の私は、勉強も運動もパッとしない、いわゆる「モブキャラ」でした。目立つタイプではないし、何かで圧倒的に勝てる感じもしない。
ただ、ひとつ好きなことがありました。絵を描くことです。ノートの端や裏に、頭の中の景色や人物を描いている時間は、私にとって小さな逃げ場所でした。一度、マンガを描こうとしたことがあります。でも、想像以上に難しかった。コマ割り、構図、セリフ、間。スクリーントーンもお小遣いで買うには高かった。頭の中では動いているのに、紙の上でそれを成立させるのは別世界で、私はすぐに諦めてしまいました。
今思えば、その「できなさ」は恥ではなく、後に私の見方を作った「経験」となりました。――人が何かを形にするのは、いつも簡単じゃない。環境、継続、伴走、そして仕組み。そういうものがないと、努力は静かに消えていく。私は子どもの頃のあの小さな挫折から、うまく言葉にできないまま、その感覚を抱えていたのだと思います。
第2章 海洋スクールが作った私の原体験
0歳から20歳にかけての「海洋スクール」は、私の基盤(OS)を作った場所です。長期休みに西伊豆で行われる合宿で、小学生の頃は年上に面倒を見てもらいながら過ごしました。
ところが中学・高校になると、班長やリーダーとして責任ある立場になる。メンバーのことで叱られることもありました。自分ひとりが頑張ればいいわけではなく、全体が回らないと意味がない。そんな当たり前のことを、私は体で覚えました。
そんな中、大きな救いと楽しみになったのは、全体消灯後のミーティングです。先生たちと遅くまで話せる時間が、ちょっとした優越感や自己有用感となり、励みでした。今日の出来事を振り返ったり、班の雰囲気のズレを言葉にしたり、理不尽さや納得いかないことをぶつけたり。
大人が「聞く側」になってくれる夜があることが、10代の私にはすごく救いでした。後になって気づきましたが、あれは“教育”の一番大事な部分だったと思います。知識だけじゃない。役割を引き受ける経験と、対話の時間。責任と、寄り添い。その両方があると、人は少しずつ変われる。責任と対話がセットになった経験は、「人は役割と対話で育つ」という確信になって、いまの私の政治姿勢にもつながっています。
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第3章 社会に出る 県内企業で営業職
短大卒業後、私は県内企業で営業職として働きました。数字や成果の向こうに、生活があることを知りました。相手の事情に触れ、言葉にならない不安に触れ、どうすれば前に進める形になるかを探す。ここで培った「触」の感覚――現場に触れてから考える癖――は、後の人生を支える土台になりました。
第4章 沖縄移住 暮らしの手触りが変わった
2005年、私は「好き」だけを理由に、沖縄へ移住しました。それをきっかけに結婚し、出産しました。土地が変わると、当たり前が変わる。便利さよりも人と人の距離、机上の理屈よりも暮らしの段取り。沖縄で私は、「生きる」ことを手触りで捉え直すようになりました。
そして、三つの「しょく」――食・職・触――が人生の軸になります。
食べることは命の入口。働いて生活をつくることは暮らしの土台。現場に触れて体で理解することは、迷ったときに自分を戻す羅針盤。
この三つが揃うと、人は強くなる。欠けると、生活は簡単に崩れる。その現実を、私は沖縄で知りました。
第5章 農家になりたいのに、入口に立てない
長男が1歳の時に、私は農業に挑戦します。
「農家になりたい」。ただ、それだけ。でも夢の入口に立つ前に、制度の壁がありました。どこに相談へ行けばよいか分からず、市の農業委員会に行ったとき、「農家とは、農地を持ってる人のことである」と言われ、農地の取得方法を聞くと「農地は農家しか手に入れられない」と言われた。農地がないと農家になれないのに、農家でないと農地が手に入らない。入口で詰む矛盾でした。それでも私は引き返しませんでした。
ここで私の中にひとつの癖がはっきり形になります。「できない理由」を集めるより、「動く方法」を探す。現場に触れてきた人間として、私は止まるより突破する方に気持ちが向いてしまう。その癖は、良くも悪くも、その後の私を前に進ませ続けました。
能力や熱意の問題ではなく、仕組みの構造が人の未来を止めてしまう。私はそこで初めて、人生の分かれ道が本人の努力とは別のところにもあることを知りました。
第6章 畑と販路 食・職・触が一本につながる
その後、メンターとなる農家と出会いました。研修生としてお手伝いを始めたことから、だんだん地域に知り合いも増え、馴染みのご近所さんから「あそこに使ってない畑があるから、耕して使ったら?」と声をかけられるようになり、やっとスタートラインに立てました。
しかし開墾の現実は重すぎました。いわゆる荒廃農地であり、畑として成立させるには、想像以上にお金がかかりました。耕すために何百万円もかかり、貯金はあっという間に底をつく。さらに生活が成り立つまで時間がかかりました。農業は“時間差”の仕事です。今日頑張っても、収入になるのは先。努力が目に見える形で返ってこない期間が長いほど、人は不安になります。ここが一番きつかった。
農業を始めた頃から、作物を育てるのと同じくらい「取引先の開拓」に力を入れました。同じ収量でも高付加価値を付けたかったからです。冬場のバジルとイタリアンパセリを中心に、沖縄県内だけでなく全国のレストランや食品工場へ直接取引を開拓していきました。電話して、会いに行って、試してもらって、断られて、それでも続ける。農業は作って終わりではなく、売るところまで含めて初めて生活になる。その他、地元の島野菜やナス・ピーマンなどはJAや直売所にも出荷し、現実的に収入の柱を組み立てていきました。
ここで私が得たのは、覚悟、強さ、実行力です。
しかし同時に、根性論とは逆の結論にもたどり着きました。挑戦を個人の根性に丸投げする社会は必ず疲弊する。入口の矛盾や情報不足があるだけで、挑戦は簡単に潰れてしまう。だからこそ、挑戦が成立する“仕組み”が必要なのだと、畑の上で確信しました。食は品質で守り、職は販路で成立させ、触は現場で鍛える。この三つが揃わないと暮らしは続かないのだと、私は身をもって学びました。
第7章 帰郷 生命保険会社で10年
その後、私は離婚して帰郷しました。息子二人を1人で育てるために、頑張りが収入に反映する生命保険会社を選びました。保険の仕事は、ただ商品を売ることではありません。家計の不安、病気、事故、離職、家庭の事情。人生の揺れが相談として目の前に来る。
そこで私は、困りごとは一つだけで起きないことを痛感します。教育の問題は家庭の問題とつながり、地域の問題は働き方とつながる。ひとつの制度だけ直しても救えない現実がある。この“複合課題”の感覚は、後に私を政治の道へ向かわせる下地になりました。
第8章 山村留学との出会い 制度が“使えない”という壁
2018年、私はたまたまテレビで山村留学制度を知りました。可能性を感じて調べ始めたのに、次にぶつかったのは「情報がない」という壁でした。制度が知られていない。比較するためのまとまった情報がない。選び方の指針もない。制度があっても、当事者がたどり着けなければ、実質的には“ない”のと同じです。
さらに衝撃だったのは、静岡県に山村留学がひとつもないことでした。過疎地の活性化にも、都市部の子どもたちの体験機会にもつながるはずなのに、選択肢がゼロ。私は自治体を中心にアプローチを始めましたが、前例がない、担当が違う、予算がない――話は思うように進まない。外から声を上げることの限界を、この時期から何度も感じました。
第9章 離島留学 子の意思と安全の両立
その後、息子たちは2020年から2023年まで、長崎県の離島に移住し、親元を離れて学び暮らす期間を過ごしました。基本は1年単位の仕組みでしたが、子どもたちの意志を確かめながら延長し、結果として約2年半になりました。その時、私が最優先にしたのは、子どもの意志です。
しかし、その暮らしは道半ばで中断します。ある事件に巻き込まれたからです。ここで私は、「子どもの意志を尊重すること」と「リスクを想定し、安全を確保すること」は、セットで設計しなければならないと痛感しました。善意だけでは守れない局面がある。「大丈夫だろう」で止めてしまうと、取り返しのつかない場面がある。私はこの出来事を通じて、“制度を語るなら運用まで”という視点を、痛みを伴って手に入れました。
第10章 コンテンツは国益であり地域戦略だ
私が「コンテンツ」を“趣味”ではなく“国益と地域戦略”として捉えるようになった原点は、2009年にあります。麻生太郎政権下で、マンガ・アニメ・ゲームなどのメディア芸術を保存・発信し、著作権を守るという国の拠点構想が持ち上がりました。マンガが好きだった私はこの政策に大変期待したものの、政権交代と事業仕分けで「国営マンガ喫茶」などと揶揄され、結果として立ち消えとなりました。私は当時から、あの扱われ方は日本の国益を損ねたと感じていました。
マンガ・アニメ・ゲームなどで生まれたIP(知的財産)は、ただの「趣味・エンタメ」ではなく、人を動かし、お金を動かし、技術や観光や教育にも波及する成長産業です。だからこそ私は、県議として、地方から発信したい、静岡の経済に組み込みたいと考えるようになりました。文化の話ではなく、未来の産業と地域の話として。
終章 だから私は、やる側に回った
山村留学で見えた“情報不足”、
離島留学で突きつけられた“安全と運用”、
沖縄で学んだ“仕組みがないと努力は消える”という現実、
そしてコンテンツが軽く扱われた時代への違和感。
これらが私の中で一本につながって、結論が固まりました。外からお願いを続けるだけでは、変わるスピードが遅すぎる。子どもと家庭の現実に追いつかない。教育改革を本気で進め、地域の選択肢を増やし、成長産業を静岡の力に変えるには、自分が“やる側”に回るしかない。私はいまも、三つの「しょく」を手放していません。
食――暮らしの入口を守ること。
職――自分の足で生活をつくれる社会にすること。
触――机の上ではなく、現場の声と手触りから政策を組み立てること。
政治が遠いものに見えるのは、触れる機会が少ないからかもしれません。
でも本当は、政治は生活そのものです。
進学、仕事、家族、住まい、地域、災害への備え。あなたの毎日に直結しています。だから私は、これからも“つなぐ”仕事を続けます。あなたの声が届かないまま消えないように。
あなたの挑戦が入口の矛盾で止まらないように。
現場から、仕組みを動かすために。